なぜ
柳之御所やなぎのごしょ」というのか

「堀内部」の再現された堀。その奥の住宅が立ち並んでいる場所が、秀衡・泰衡の居館「伽羅之御所」跡。
「堀内部」と「伽羅之御所」跡

柳之御所遺跡いせきが位置する場所は現在、平泉町平泉字柳御所やなぎのごしょという地名になっています。
 江戸時代、この周囲に、みなもとの義経よしつねが住むやかたがあった、といわれていました。その館は、中世の歌曲の中で「やなぎたち御所ごしょしつらえて」とか、「御所ごしょを立ててやなぎ御所ごしょもうして」などと歌われて

いたほか、仙台藩が平泉の文物を保護するなどの時代背景の中で、柳之御所やなぎのごしょと言われるようになりました。

柳之御所史跡公園の地図
これらから、明治時代には「柳御所やなぎのごしょ」という地名に定まります。
 なお、「柳」という言葉は、昔、中国で、細柳さいりゅうという地に優れた軍隊の陣地を造った将軍がいたことから、将軍の居場所を「柳営りゅうえい」と呼ぶようになったことに由来すると言われています。

 そして現代、遺跡の名前は、遺跡がある場所の地名を使って名付けられることが多くなっています。そこから、「柳御所」という地名を

別の画像の説明
中央のテント近辺と右手前は第85次発掘調査現場。
用い、「柳之御所やなぎのごしょ遺跡」と呼ばれています。