西行さいぎょう

(1118年~1190年)は平安時代末期から鎌倉時代初期の歌人の僧です。京都の鳥羽とば院につかえる佐藤義清のりきよという文武両道の北面ほくめん武士ぶしでしたが、23歳で出家し、僧西行となりました。四国から東北まで何度も旅をしつつ、源平合戦で元の仲間の武士たちが殺し合い傷つけ合う中で、武器をてて筆を取り、花や月を愛してこの世に生きる喜びや、生きるあかしの歌をみ続けました。奥州藤原氏の同族である西行は、26歳頃と69歳頃の二度平泉を訪れています。平泉でんだ「ききもせず」の歌も、若い頃に武士をやめ武器を捨てて出家した西行の「ここにも花(桜)を愛し、平和を愛する人々がいて、美しい花を咲かせているなあ」という、驚きと喜びの心を表しているようです。



俳人はいじん俳諧師はいかいし

 俳諧を作る人のこと。俳諧はいかいとは、本来「おどけ。たわむれ。滑稽こっけい」の意味で、「俳諧はいかい(の)連歌れんが」の略でもあります。連歌れんがとは、短歌の上の句五・七・五と、下の句七・七を二人以上で交互こうごつらねてゆく和歌わか形式です。
 貴族が始めた時は上品な言葉を使ったのですが、気取らない話し言葉を自由に使う俳諧の連歌が、武士や町人そして農民に好まれるようになって全国に広まりました。江戸時代の芭蕉が東北の旅ができたのも、俳諧の連歌が、東北でも多くの人々に楽しまれていたからです。心通う仲間(連衆れんじゅ)が集まった時節を忘れないために、連歌の最初の五・七・五の発句ほっくに季節の言葉を入れるようになったのが季語きご季題きだい)の始まりだと考えられています。それゆえ発句ほっくには独立性があり、後の明治時代に正岡まさおか子規しきらが世界で最小の詩として評価し、「俳諧はいかいの連歌の発句ほっく」の始めと終わりを取り「俳句はいく」と呼ぶようになったとされています。俳諧は、話し言葉や気取らない言葉で滑稽こっけいやユーモア、そして感動を表すことができる、自由で豊かな表現方法だったのです。



芭蕉ばしょう

(1644年~1694年)は、関西の伊賀いが(三重県)出身で、家は武士に準ずる農家でした。先祖は伊賀での合戦で織田信長方となり、敵味方に分かれ傷つけ合う武士の悲しみを家族から教えられたようです。19歳の頃、俳号を宗房そうぼうとして地元藤堂とうどう藩の藤堂良忠よしただ(俳号、蝉吟せんぎん)に俳諧を通してつかえ、良忠亡き後の29歳の時、江戸に出て俳号も桃青とうせいあらため、北村季吟きたむらきぎんの門弟となり和漢の古典を学びます。芭蕉はそれをまえつつ、自由で新たな作風を生み出した俳人です。
 その後、海に近い深川に移住しいおりを中国唐の詩人杜甫とほの詩句「門には泊す東呉万里の船」をふまえ「泊船堂はくせんどう」と名づけており、芭蕉の杜甫とほへの共感がうかがえます。そこに中国で大きな葉と枯れて破れるはかなさを愛された芭蕉ばしょうを、弟子が植えたため「芭蕉ばしょうあん」と呼ばれみずからも「芭蕉ばしょう」と名乗るようになります。元禄二年(1689)西行五百回忌の3月27日に、芭蕉は弟子の曾良と共に『おくのほそ道』の旅に出ます。



夏草なつくさや つわものどもが ゆめあと」 芭蕉

意訳
(夏草が勢いよく茂っているなあ。ここは武士達が武器を取り、夢や野望をいだいて戦い、確かに生きて、そして死んでいった、その跡だ。)


高館の夏草
高館の夏草
 芭蕉はこの句を詠んだとき、中国唐の詩人杜甫とほの詩『春望しゅんぼう』を「国破れて山河在り、城春にして草青みたり」と思い浮かべ、その時空を越えた変わらぬ真理、普遍性に気づき感動し涙を落とします。今は草深くなってしまったここ平泉に、戦乱で破壊されたとうみやこ長安ちょうあんのような栄華を極めた都市があり、多くの人々の人生があったことを知っていたからです。



春 望しゅんぼう

くだし文)  杜甫とほ(712年~770年)

くにやぶれて山河さんが

(国の都は戦乱で破壊されたが、山河はもとのままあり、)

しろ春にして草木そうもく深し

(都長安の町の城壁の中は、春となり草木が茂っている。)

ときに感じては花にも涙をそそぎ

(戦乱のこの時に感じるのは、美しい花を見ても涙が流れ、)

わかれをうらんでは鳥にも心を驚かす

(家族と別れた恨みで、楽しい鳥の声や姿にも心おびえる。)

烽火ほうか三月につらなり

(空見上げれば戦争を知らせる狼煙のろしの煙は三か月(三月さんがつ説も)も続き、)

家書かしょ万金ばんきんあた

(手元にある家族の安否を知らせる白い手紙はお金に代えがたい。)

白頭はくとうけばさらに短く

(家族のために何もできない不安やなげきで白髪頭しらがあたまきむしれば、)

べてしんへざらんとほっ

かんむりかんざしさらず役人としても父としても無力だ。)


 芭蕉が、冒頭の二句を引用した杜甫の詩『春望』は、以上のように全体では、唐の都長安が安禄山の反乱軍に破壊され家族と別れた戦乱の中、夫として父として何もできず白髪頭を掻きむしり家族を思う「白頭掻けば」という杜甫の姿が描かれています。この有名な詩を平泉で思い浮かべて、世界中変わらぬ普遍的な戦争の悲惨さを伝えようとしているようです。
 そして、この時同行していた芭蕉の弟子の曾良そらは、芭蕉の「夏草や」の句に続けて、

はなに 兼房かねふさ見ゆる 白毛しらがかな」曾良


意訳
(真っ白な卯の花が咲いて揺れるのを見ていると、あの兼房かねふさのことが思い浮かんでくるよ。彼の、白髪を振り乱して、主君の義経、そして育ての親として娘・北の方とその子を守り切れなかったなげきの姿が)
平泉に咲く卯の花
平泉に咲く卯の花
という句を詠んでいます。奥州平泉で義経主従と義経の妻子を戦乱の中、義経の妻の育ての親、父として命を守り切れず「白毛しらがかな」と白髪頭を振り乱してうちち死にしたと『義経記』で語られる十郎権頭じゅうろうごんのかみ兼房かねふさ (十郎権頭兼房について 新編日本古典文学全集62『義経記ぎけいき』~「兼房かねふさ最期さいごの事」459~467頁 より)の姿があります。平泉で臣下や家族と共に滅ぼされた源義経みなもとのよしつねの一生を、悲劇的な後半生を中心に描いた『義経記ぎけいき』では、兼房かねふさは義経の臣下である前に義経の妻(北の方)となる久我こがひめぎみの育ての親、乳人めのととして描かれ、娘を守るために京都から平泉まで同行しています。「兼房見ゆる」と詠んだ曾良も、それを『おくのほそ道』にせた芭蕉も『義経記』を読んでいたと思われます。 平泉に咲いて風に揺れる真っ白な卯の花を見る時、杜甫と兼房の二人の白髪が重なって見える人もいるかもしれません。



五月雨さみだれの のこしてや 光堂ひかりどう」 芭蕉

意訳
(五月雨が降り続きます、すべてを てさせるように。いや、降り残していますよ。《平和を祈り願う人々がしっかり守り続けています。》この光堂を)
平泉中尊寺ちゅうそんじの多くの建物は奥州藤原氏滅亡後、火災等でほとんどがなくなり、あるいはち果ててしまっていました。しかし戦争をなくし平和を大切にしたいと願う人々の祈りや願いは消えていません。光堂、つまり金色堂は今も大切に守られ、光を放ち続けています。



宮沢みやざわ賢治けんじ

(1896年~1933年)の詩は、芭蕉とは違う、地元じもと 岩手の青年の視点です。

『中尊寺』のの意味
七重の舎利しゃり仏陀ぶっだの遺骨(ここは藤原四代の御遺体か)を納めた小塔(金色堂か)に ふたをするようにかがやいている緑色のほたるの光のような燐光りんこう
大盗賊は銀色の帷子かたびら(銀製の防御ぼうぎょ用の鎖帷子くさりかたびらか)を身にまとい、 おがんですぐに(仏像や仏具を盗もうとして)ひざを立てた。
ほのおのような真っ赤な目玉は丸く大きく見開みひらかれ、
つっぱった両肱りょうひじは光り輝く。
ついに手を触れられなかった舎利の宝塔、
大盗賊は礼拝をして消えてゆく。 )


・このの「大盗たいとう」の解釈については以下の諸説があります。


⑴    平泉の奥州藤原氏を滅ぼした、義経の兄 源頼朝みなもとのよりとも
⑵    豊臣とよとみ秀吉ひでよしの家臣で、東北の乱を平定した後に、平泉にある
   中尊寺の「金銀字交書一切経いっさいきょう」の多くを持ち去り高野山に
   寄進した浅野あさの長政ながまさ
⑶    坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろと戦った蝦夷えみしの族長で平泉達谷窟たつこくいわやに住んだ
   悪路王あくろおう阿弖流為あてるい説も)
⑷    万人共有の素晴らしい言葉を積極的に学んで「る」詩人
   であり、どんどん取り入れる知識欲ある人であると同時に、
   人間活動の「とること」をためらいうたがいを抱く宮沢賢治。