(1644年~1694年)は、関西の伊賀(三重県)出身で、家は武士に準ずる農家でした。先祖は伊賀での合戦で織田信長方となり、敵味方に分かれ傷つけ合う武士の悲しみを家族から教えられたようです。19歳の頃、俳号を宗房として地元藤堂藩の藤堂良忠(俳号、蝉吟)に俳諧を通して仕え、良忠亡き後の29歳の時、江戸に出て俳号も桃青と改め、北村季吟の門弟となり和漢の古典を学びます。芭蕉はそれを踏まえつつ、自由で新たな作風を生み出した俳人です。
その後、海に近い深川に移住し庵を中国唐の詩人杜甫の詩句「門には泊す東呉万里の船」をふまえ「泊船堂」と名づけており、芭蕉の杜甫への共感がうかがえます。そこに中国で大きな葉と枯れて破れるはかなさを愛された芭蕉を、弟子が植えたため「芭蕉庵」と呼ばれ自らも「芭蕉」と名乗るようになります。元禄二年(1689)西行五百回忌の3月27日に、芭蕉は弟子の曾良と共に『おくのほそ道』の旅に出ます。