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探究・平泉の文化遺産
 岩手大学と岩手県では「学校教育における世界遺産の教材化についての研究」を5年間にわたり共同で進めてきました。このページはその研究成果のひとつで、「探究的な学習」に対応したデジタル教材として作成したものです。本文は、児童・生徒向けガイドブック「ときめき平泉の文化遺産」(岩手県発行)の内容に準じています。深く調べたいときにリンクする先については、情報が確かで安全なものを選んでおり、「探究的な学習」の「情報収集」の過程で役立てられるようにと作ってあります。このページを読んで、もっと知りたいと思ったなら、太文字・下線 をクリックしてみてください。もっと詳しい情報にアクセスできるようになっています。私たちは、児童生徒の皆さんがこのページを活用して、世界遺産についての理解を深め、 自分たちと世界遺産のかかわりについて考えるようになってくださることを期待しています。

岩手大学 平泉文化研究センター長
理工学部教授 平原 英俊
探究・平泉の文化遺産
   
1. 「平泉の文化遺産ぶんかいさん」世界遺産いさん登録とうろく

2011年(平成23年)6月、フランスのパリで開催かいさいされたユネスコ世界遺産いさん委員会において「平泉の文化遺産ぶんかいさん」が世界遺産いさん登録とうろくされました。

資 産 名 「平泉ー仏国土ぶっこくど浄土じょうど)を表す建築けんちく庭園ていえん・及び考古こうこがく遺産群いさんぐん

構成資産 「中尊寺ちゅうそんじ毛越寺もうつうじ観自在王院跡かんじざいおういんあと無量光院跡むりょうこういんあと金鶏山きんけいざん

2008年は世界遺産いさんへの登録とうろく延期えんきされましたが、構成資産こうせいしさんを見直し、2011年に登録が決定しました。さらに今後、柳之御所遺跡やなぎのごしょいせき拡張かくちょう登録を目指しています。
平泉のすばらしい自然や文化を守り、未来に伝えていくことが私たちには求められています。
年表 藤原清衡 藤原基衡 金色堂 藤原秀衡 藤原泰衡 前九年合戦 後三年合戦 中尊寺供養願文    西行 鎮守府将軍   陸奥守 義経主従平泉に入る
         
3-1.「平泉の文化遺産いさん特徴とくちょう
 平泉には、建物として国宝第一号中尊寺金色堂ちゅうそんじこんじきどう特別史跡とくべつしせき特別名勝とくべつめいしょうの両方に指定されている毛越寺もうつうじをはじめとして、奥州藤原氏おうしゅうふじわらしが平安時代にきずいた寺院じいん庭園ていえんなど、たくさんの文化ざいがあります。さらに、一関市には骨寺村荘園遺跡ほねでらむらしょうえん いせき、奥州市には長者ヶ原廃寺跡ちょうじゃがはらはいじあと白鳥舘遺跡しろとりたて いせきなど奥州藤原氏に関連かんれんする多くの遺跡いせきが残っています。
 特に、中尊寺などが2011年に世界遺産いさんに登録されたさいには、日本に伝わって発展はってんした仏教ぶっきょうによって、平泉の寺院や庭園の形が生み出されたことが高く評価ひょうかされました。
 奥州おうしゅう藤原ふじわら氏は、長い戦乱せんらんの後、平和を目指して、奥州 (ほぼ、今の福島、宮城、岩手、青森の4県にあたる) の中央に中尊寺ちゅうそんじてました。また、毛越寺もうつうじ無量光院むりょうこういんは、浄土じょうどをこの世に表そうとしたものです。いずれも、ばく大な権力けんりょく財力ざいりょくがあったので実現じつげんできました。このように、仏教ぶっきょうの教えをもとに、平和な理想郷りそうきょうを目指した様子が、「平泉の文化遺産ぶんかいさん」にあらわれています。
3-2. 戦争せんそうのない理想郷りそうきょうをめざした黄金文化おうごんぶんか
「平泉の文化遺産いさん」のもうひとつの特徴とくちょうは、束稲山たばしねやまに、さくらの名所で知られる奈良県の吉野山よしのやま匹敵ひってきするほどの数の桜を植えるなど、周辺の環境かんきょうにまで配慮はいりょしたまちづくりを進めていることです。また、地域ちいきの人々が多くの遺跡いせき芸能げいのうを大切に守りつづけ、現代げんだいにもいきづいていることも大きな特徴とくちょうです。
3-3. 周辺しゅうへん環境しゅうへんを考えたまちづくり
 今から1200年ほど前、都が奈良から京都に移ったころ、東北地方の太平洋側は陸奥国むつのくにと呼ばれ、多賀城たがじょうがその中心でした。しかし、 陸奥国むつのくには広かったため、胆沢いさわ城(奥州市内に遺跡がある)きずき、北方ほっぽう支配しはいを固めました。それから200年が過ぎ、今から1000年前ごろには、朝廷ちょうていによる支配が少しずつゆるんできて、特に、京都から遠くはなれた地方では、京都からうつり住んで土着どちゃくした豪族ごうぞくなどが、朝廷ちょうていの意にそむくほど強い勢力せいりょくをもつようになりました。このような状況じょうきょうで、今の岩手県の中央から県南にかけて勢力を広げていたのが安倍氏あべしです。
4. 奥州おうしゅう藤原氏が平泉を拠点きょてんとするまで
 今からおよそ950年前、安倍頼時あべのよりときの力をおそれた朝廷は、武士ぶしである源 頼義みなもとの よりよし陸奥守むつのかみ 任命にんめいし、安倍頼時と、その子貞任さだとう宗任むねとう戦争せんそうを始めます。
  源 頼義よりよし苦戦くせんしましたが、 秋田で勢力せいりょくを広げていた豪族ごうぞく清原武則きよはらのたけのりを味方につけ、ついに安倍氏をほろぼしました。この合戦を前九年合戦ぜんくねん がっせんといいます。
  このいくさで、安倍頼時あべのよりとき貞任さだとう親子は戦死せんしし、頼時よりときの娘の夫である藤原経清ふじわらのつねきよも源頼義よりよしによって殺されてしまいます。しかしその後、頼時よりときむすめは7歳になる息子をつれて清原武則たけのりの子武貞たけさだ再婚さいこんすることになったのです。その子こそが、のちの藤原清衡ふじわらのきよひらです。
5. 前九年合戦ぜんくねん がっせん  (1051年~1062年)
 安倍あべ氏がほろんだ前九年ぜんくねん合戦から20年後、安倍あべ氏を滅ぼした清原きよはら跡継あとつぎ問題をめぐり、兄弟(真衡さねひら清衡きよひら家衡いえひら)の間であらそいが起こりました。長男真衡さねひらの死後、清原きよはら家衡いえひらの争いになり、さらに朝廷ちょうていから陸奥守むつのかみ任命にんめいされていた源義家みなもとのよしいえが、清衡軍に加わって大きな戦争に発展しました。この合戦を後三年ごさんねん合戦といいます。 この合戦で最終的に清衡きよひらが勝利し、生き残りました。清衡はその後、たち江刺えさしから平泉に移し、藤原を名のりました。
 約100年にわたる黄金おうごん文化、平泉の歴史はここから始まります。
6. 後三年合戦ごさんねん かっせん  (1083年~1087年)
 平泉にたちうつし、 東北地方をおさめることになった清衡きよひらは平和を望んでいました。 それは、中尊寺ちゅうそんじ建立こんりゅうするさいによまれた「中尊寺建立供養願文ちゅうそんじ こんりゅう くよう がんもんの、「戦争でなくなった全てのものを、てき味方の区別なく極楽浄土ごくらくじょうどへとみちびきたい」という一文からも読みとれます。このように、たび重なるいくさにより命を落とした敵味方をふくめた全ての人々、さらには動物のれいなぐさめ、とむらうために、中尊寺が建立こんりゅうされたのです。さらに、この一文はユネスコ憲章けんしょうにある「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心に平和のとりできずかなければならない」とする理念りねんにも共通するものです。クリック→ *中尊寺建立供養願文の写真
7-1. 初代清衡きよひら
 清衡きよひらは、金色堂こんじきどう二階大堂にかいだいどうをはじめ、様々さまざま堂塔どうとうを建てたり、池をって庭園を造営ぞうえいし、20年という年月をかけて中尊寺ちゅうそんじを完成させました。 また、清衡は当時の最先端さいせんたん技術ぎじゅつが用いられた仏像ぶつぞう仏具ぶつぐ仏堂ぶつどう内陣ないじん(内部)装飾そうしょく経文きょうもんなどをそろえていきました。なかでも、金色堂内陣装飾ないじんそうしょく金銅華鬘こんどうけまん、金と銀で経文きょうもんうつした「紺紙こんし金銀字きんぎんじ交書こうしょ一切経いっさいきょう」などを見れば、平泉で当時の最高技術が使われたことが分かります。
 なお、金色堂の南東には、大池跡おおいけあとがありますが、この場所が「中尊寺建立こんりゅう供養くよう願文がんもん」に書かれている、寺院のあとではないかというせつが有力です。
7-2. 中尊寺ちゅうそんじ金色堂こんじきどう
 初代清衡きよひらの死後、清衡のあといだのは基衡もとひらです。基衡は、清衡がえがいた仏教ぶっきょうを中心とした平泉のまちづくりをさらに発展はってんさせました。
 ふんだんにとれた金や交易こうえきによりゆたかかな財力ざいりょくを活かして、平泉の南に毛越寺もうつうじ建立こんりゅうしました。毛越寺の中心伽藍がらんである金堂円隆寺こんどうえんりゅうじをはじめとする堂塔どうとうは、歴史書「吾妻鏡あづまかがみ」に我が国で他に例がないほどりっぱなお寺だと記されています。現在まで、少なくとも2度の火災にあい当時の建物は残っていませんが、
礎石そせき⦅建物の土台となる石⦆や大泉おおいずみいけを中心とした浄土じょうど庭園ていえんは、当時の姿すがたを今に伝えています。
8-1. 二代基衡もとひら
基衡もとひらは、円隆寺えんりゅうじ本尊ほんぞんである薬師如来像やくしにょらいぞうを作るために、京都の仏師ぶっし仏像ぶつぞう作りをたのみました。その完成までの3年間、京都にたくさんの貢物みつぎものおくったといわれます。そのうわさを聞きつけた鳥羽とば法皇ほうおうが、あまりにすぐれた薬師如来やくしにょらい像のできばえにおどろき、京から仏像の持ち出しを禁止きんししたほどでした。それほど、すばらしい仏像だったのです。
旧観自在王院庭園きゅうかんじざいおういんていえん    (観自在王院跡)かんじざいおういんあと
毛越寺もうつうじのとなりには、基衡もとひらの妻がつくったといわれる観自在かんじざい王院がありました。
現在は、庭園ていえん復元ふくげんされて公園となっています。
8-2. 毛越寺もうつうじ観自在王院かんじざいおういん
 基衡もとひらの死後、三代目をいだのは秀衡ひでひらです。秀衡は基衡がつくりはじめた毛越寺もうつうじを完成させました。そしてあらたに、金鶏山きんけいさんを背後に、無量光院むりょうこういん建立こんりゅうしています。この無量光院むりょうこういんは、宇治うじ平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどうをモデルとしてつくられましたが、規模きぼとしては一周ひとまわり大きかったようです。また、無量光院むりょうこういんを中心に柳之御所遺跡やなぎのごしょいせき周辺しゅうへんを含めた広い範囲はんい整備せいびを行い平泉の都市を完成させました。
9-1. 三代秀衡ひでひら
 三代 藤原秀衡ひでひらが、北方の王者といわれる理由りゆうは、優れた経済力けいざいりょくと東北地方をおさめる才能さいのうがあったからです。清衡きよひら基衡もとひらは、東北地方の軍事ぐんじ警察けいさつ責任せきにん者である押領使おうりょうしになりましたが、秀衡ひでひらは、さらに上の位の鎮守府将軍ちんじゅふしょうぐんとなり、ついには陸奥守むつのかみというしょく任命にんめいされます。このしょくは、現在でいえば、東北六県の知事の代表のような役職やくしょくで、名実めいじつともに秀衡ひでひらは、東北地方の支配しはい者になったのです。
9-2. 陸奥守むつのかみとしての藤原氏
秀衡ひでひらをはじめ、奥州藤原氏が政務せいむを行っていた平泉館ひらいずみのたち柳之御所やなぎのごしょ遺跡にあったと考えられています。長年の発掘調査はっくつちょうさの結果、清衡きよひらから四代泰衡やすひらまでほぼ100年間使われていたことが分かってきました。大きなほりに囲まれた中には、ひときわ立派りっぱな中心建物がありその南西には池がつくられました。池には西の金鶏きんけい山頂に向かう橋がかけられていて、池と山との間には無量光院むりょうこういんが位置していました。


なぜ「柳之御所」というのか
9−3. 柳之御所やなぎのごしょ平泉館ひらいずみのたち
 秀衡ひでひらは、源義経みなもとのよしつねが兄の頼朝よりともに追われて再び平泉に落ちびてきた1187年の冬、病でくなりました。秀衡ひでひらあといだ四代泰衡やすひらは「義経よしつねを助けると、平泉を攻撃こうげきするぞ」という頼朝よりともからの圧力あつりょく抵抗ていこうしきれず、義経よしつね攻撃こうげきし、自殺に追いやってしまいます。
 秀衡ひでひら義経よしつねが死んだことを確認した後、ついに頼朝よりともは平泉へ兵を向けました。その後、泰衡やすひら頼朝よりとも軍からげるように秋田県まで落ちびましたが、ついには家来けらいによってころされてしまいます。
 ここに奥州藤原氏は滅亡めつぼうしました。中尊寺ちゅうそんじなどの寺院は、そのまま続きますが、その後、たび重なる火災により多くの堂塔どうとうは焼け落ちてしまい、ほとんどが再建さいけんされることなく現在にいたっています。
10. 四代泰衡やすひらと藤原氏の滅亡めつぼう
柳之御所やなぎのごしょ遺跡は、北上川堤防ていぼうとバイパス道建設けんせつのために、発掘はっくつ調査ちょうさ終了後は失われることになっていました。しかし、発掘調査はっくつちょうさが進むにつれて柳之御所遺跡やなぎのごしょいせきは、奥州藤原氏が政務せいむを行っていた平泉館ひらいずみのたちであると考えられるようになり、その重要じゅうようせいが明らかになりました。そして、住民や研究者を中心に、遺跡いせき保存ほぞん運動がたくさんの人たちに広がっていきました。
 1993年(平成5年)、国は堤防ていぼうとバイパス道の計画を変更へんこうし、遺跡いせき保存ほぞんすることを決めました。柳之御所やなぎのごしょ遺跡いせきに関わったすべての人たちの願いが、遺跡いせき保存ほぞんにつながったのです。
11-1. 柳之御所遺跡やなぎのごしょいせき保存ほぞん
 2010年(平成22年)からは、柳之御所史跡しせき公園として公開され、今後も調査・整備せいびが続けられていくことになっています。
  また、遺跡いせきから道路を通過つうかする車両がどのように見えるかシミュレーションを行った結果、遺跡いせきと道路の間に盛土もりつちが必要であることが分かりました。
  そして、バイパスを通過する車両による騒音そうおん等を軽減けいげんするため、史跡しせき公園とバイパスの間に盛土もりつちが行われました。
11-2. 柳之御所やなぎのごしょ遺跡いせき整備せいび
「平泉の文化遺産」は寺院だけではなく、地下にもれた遺跡いせきが多いことも特徴とくちょうとしてげられます。それらは地下にあるため、地上からは価値かちが分かりにくいとされています。そのために発掘調査はっくつちょうさを行い、遺跡いせきり起こすことによって、当時の痕跡こんせきを少しずつ明らかにしていくのです。発掘調査はっくつちょうさによって、 発見されるものは、大きく2種類に分けられます。
12-1. 平泉の発掘調査はっくつちょうさ
 池や建物の柱のあとなどの、地面に形が残っているものを遺構いこうといいます。平泉では、ほりあと、池あと、柱あとのほか、道路あと井戸いどあとなどの遺構いこうも発見されています。
       
 陶磁器とうじきや土器、また、木や金属きんぞくでつくっ た道具類など、持ち運びのできるものを遺物いぶつといいます。これらは、平泉で多数出土しています。出土した遺物いぶつのうち、とくに重要じゅうよう価値かちが認められているもの2,204点が、「重要文化財じゅうようぶんかざい」として指定していされています。
12-2. さまざまな遺構いこう遺物いぶつ
かわらけ
平泉で出土しゅつどする代表的な遺物いぶつで、柳之御所遺跡やなぎのごしょいせきでは10数トンも出土しゅつどしました。
素焼すやきの土器で、主に宴会えんかいで使われていました。1回限りの使い捨ての
ものともいわれています。
絵や文字が書かれているものもあります。
陶器とうき 磁器じき
かわらけと同じわんさらなどの食器ですが、 かまを使って高温で焼かれた焼き物
  で、ほかにかめつぼ出土しゅつどしています。

なかでも中国から日本にもたらされたものは、非常に高価こうかなものと考えられ
ています。

かわらけにくらべて、ほんの少ししか出土しゅつどしていません。
■木製品(板片いたへん)
出土しゅつどする多くの板片いたへんは、もともと食器をのせるためにつくられた折敷おしきです。
折敷は、いろいろな形に加工されてから捨てられていました。
例えば、深さ1mほどの穴から大量に板出土する、細長く加工されている
ちゅうぎもそのひとつです。ちゅうぎはトイレットペーパーとして使われてい
ました。
近年、カエルの絵がえがかれた折敷片おしきへんが見つかりました。この絵は宮廷きゅうてい内の
貴人きじんなどかぎられた人々だけに知られていた国宝こくほう鳥獣人物戯画ちょうじゅうじんぶつぎが」によくてい
ることから、平泉が京都と深いつながりがあったことを示しています。
13. 人物関係図
年表 源頼義 前九年合戦 後三年合戦 安倍頼時 源義家 家衡 真衡 藤原清衡 藤原基衡 清原氏 藤原秀衡 藤原泰衡
14-1. 現在の平泉地図
現在の柳之御所史跡公園の地図 柳之御所 無量光院 基衡のページへ 清衡のページ
       
14-2. 平泉の古地図

金鶏山に日が沈むのを拝むように、西を上にして描いた地図です。
(現在の地図は西は左です)
古地図 柳之御所 無量光院 基衡のページへ 中尊寺
 

西行さいぎょう

 平安時代から鎌倉時代に生きた歌人かじん西行は平泉を二回おとずれています。西行は、さくらが一千本植えられていたと言われる束稲山たばしねやまの美しさに感動して、次の和歌をんでいます。
「ききもせず 束稲山のさくらばな 吉野よしのほかにかかるべしとは」

〔聞いたこともない束稲山の桜が、桜の名所の吉野よしのまさるともおとらないほど美しいとは驚いた〕《歌碑:中尊寺東物見》
15-1. 文学で平泉文化を伝えた人たち・西行

松尾まつお芭蕉ばしょう

 江戸時代の俳人はいじん松尾芭蕉ばしょうは1689年に平泉を訪れました。高館たかだちに立った芭蕉は義経よしつね主従しゅじゅうや藤原氏をしのんで、次のみました。

《句碑:毛越寺》

「夏草や つわものどもが ゆめあと

 また、中尊寺ちゅうそんじ金色堂こんじきどうでは次の句を残しています。
 《句碑:中尊寺金色堂前》

     「五月雨さみだれの 降残ふりのこしてや 光堂ひかりどう

 芭蕉は、この旅をもとに「奥の細道」を書きました。
15-2. 文学で平泉文化を伝えた人たち・芭蕉

宮沢賢治みやざわけんじ

花巻市出身の宮沢賢治は、盛岡中学(現:盛岡第一高等学校)在学中に修学旅行で平泉に立ち寄ったようです。中尊寺には、次のような詩が残されています。 「中尊寺
 七重の舎利しゃりの小塔に
ふたなすや緑の燐光りんこう
大盗たいとうは銀のかたびら
 おろがむとまづひざだてば
しゃのまなこたゞつぶらにて 
 もろのひじ映えかゞやけり
 手触れ得ね舎利の宝塔   
大盗たいとうは礼してゆる」  

《詩碑:中尊寺金色堂敷地内入口》
15-3. 文学で平泉文化を伝えた人たち・宮沢賢治